宝生流とは

宝生流は、能楽の諸役のうち、主演などを勤めるシテ方の流儀です。

宝生流の源流

宝生流の源流

現在のシテ方宝生流は、大和猿楽四座のうち、外山(とび)座を源流としています。
外山座は、大和国外山崎(現在の奈良県桜井市外山)を拠点とし、
藤原鎌足の廟所として尊崇を集めた多武峰(とうのみね)寺〔談山(たんざん)神社〕に属して活動していました。

外山は、古代日本の黎明にその名を記された由緒ある土地です。
神武天皇、天武天皇の事跡に彩られ、数々の古跡、古社があります。
そのうちの一つ、宗像神社の境内には、16代宝生九郎重英宗家の尽力により、
「能楽宝生流発祥の地」の碑が建てられました。
近隣には飛鳥時代に聖徳太子の意向を受けて伎楽の修練所が建てられた土舞台遺跡もあり、
桜井自体、日本芸能の発祥の地でした。宝生流は、そのような土壌に育まれてきました。

室町時代

能の大成者、世阿弥の芸談『申楽談儀』には
「大和、竹田の座、出合の座、宝生の座と打ち入り あり。」という記述があります。
これは大和四座が固まる前の古い座について述べたものです。
竹田の座は後の金春座、出合の座は山田猿楽という座の母体であり、宝生座が古くからあったことを示しています。
「打ち入り〱あり」というのは、婚姻関係や交流の深さを表しています。『申楽談儀』には続いて、
山田猿楽の美濃大夫という人が迎えた養子に三人の子が生まれ、
それが宝生大夫、生一、観世(観阿弥のこと)だった、という記述があります。

宝生家に伝わる系図では、宝生流の初代は蓮阿弥といい、観阿弥の子で世阿弥の弟となっています。
さらに蓮阿弥以前に二代あり、蓮阿弥は白石大輔武邦という人物の養子です。
ところが観世家の系図では、観阿弥の兄弟に宝生の名はなく、蓮阿弥の名は世阿弥の甥で、
音阿弥の弟として出てきます。観阿弥の兄とされる宝生大夫と、宝生家初代の蓮阿弥とのつながりは不明ですが、
宝生座が初代・蓮阿弥の以前より、活発に活動していたことは確かです。

また芸統の近い観世座とは、競演も多く、たとえば永享元年(1429)には、室町幕府の花の御所の笠懸馬場にて、
宝生座は、観世座らとともに立合能に臨み、本物の馬や甲冑を使って、
「一谷先陣(二度の掛)」を演じ、人々を驚かせたと伝えられています。

室町時代の宝生座はまた、清和源氏の流れをくむ名門武家、山名宗全(持豊)の支持を受けていました。
文安元年(1444)に山名氏の後援のもと、来迎堂勧進のため、土御門河原で勧進能も興行しています。

戦国時代から江戸時代

戦国時代には、北条早雲、豊臣秀吉、徳川家康ら戦国大名の支援を受けました。江戸時代に入ると、
大和四座の猿楽能は武家の式楽となり、安定して芸道に励む環境ができました。

宝生流は五代将軍綱吉の贔屓を受けて、流勢を拡大しました。また同時代には加賀藩の藩主、
前田綱紀が宝生流を藩内に根づかせ、現在まで続く石川県を中心とする隆盛の基盤が築かれました。

江戸時代の後半には、十一代将軍家斉、十二代将軍家慶父子の手厚い支援を受けて、
宝生流は栄光の時代を迎え、弘化勧進能の興行という一大事業を成し遂げました。

歴代の宝生大夫

宝生家の系図に沿い、歴代宝生大夫の事跡(江戸時代まで)をたどります。

初代 蓮阿弥(れんあみ)

【1468没】

系図では観阿弥の子、宝生の流祖です。永亨二年(1430)から宝徳三年(1451)まで記録が失われ、
約二十年間の歴史的な空白がありますが、記録に残る範囲では、興福寺薪能、若宮祭礼能などに参勤しました。
後援者であった山名氏(山名金吾)の屋敷での演能記録(1464)もあります。

二代 宗阿弥(そうあみ)

【1499〔1498とも〕没】

蓮阿弥の子。初代の没後から二十余年にわたり大夫として活躍しました。
興福寺薪能に例年参勤し、法楽の猿楽(神仏奉納の能)、翫能、奉謝の猿楽といった猿楽の催しに参加しました。
足利将軍家に仕え、文明七年(1475)に賀茂で勧進能を行うなど、
この代は、宝生座に勢力があったようです。
文明十五年(1483)には周防(山口県)の大内氏の館に滞在、
演能や指導を行った記録もあり、地方にも勢力を伸ばしていたことが、うかがえます。

三代 養阿弥(ようあみ)

【1524没】

宗阿弥の子。興福寺薪能、そのほかの寺社、武家での演能が記録されています。将軍家に仕えました。
明応六年(1497)には三輪神社で勧進能を催しました。系図傍書には、晩年、関東の上杉氏に仕えたと記されています。

四代 一閑

【1558没】

養阿弥の子。鼻が高く、面の裏を削って合わせたという逸話(四座役者目録)から、「鼻高宝生」と呼ばれました。
代々、宝生大夫は足利将軍家に仕えてきましたが、幕府衰退に伴い、一閑は小田原の北条早雲のもとに身を寄せました。
そのため興福寺薪能への参勤も、著しく少なくなりました。一閑は技芸で名手と評されたうえ、
系図傍書には、武芸にも秀でていたと記されています。後に服部四郎左衛門勝政と名乗りました。

五代 重勝(しげかつ)〔宝山〕(ほうざん)

【1585〔1572とも〕没】

養子(第六代観世大夫道見元広の子)。「小宝生(または古宝生)」と呼ばれた名手です。
乱拍子を得意とし、その習得にあたって、まず小鼓から習いはじめたほど研究熱心で、
堅実な芸を磨きあげたといわれます。
また身軽な人で、「道成寺」では鐘の中に取り付いたまま鐘を引き上げさせ、
ややあってヒラリと下り、観る者を感嘆させたというエピソードもあります。
一閑と同じく、小田原の北条氏に仕えましたが、系図傍書には、北条家滅亡後に大和国へ帰ったと記されています。
また重勝の子、元盛〔元尚〕は、重勝の兄にして名人・七代観世大夫宗節の養嗣子となり観世大夫を継ぎました。
宝生家と観世家は室町時代から縁戚関係にあり、芸の系統、芸風も近く、上掛りと呼ばれています。

六代 勝吉(かつよし)〔九郎、忠勝(ただかつ)、道奇(道喜)〕

【1630没】

養子(七代金剛大夫氏正(鼻金剛と呼ばれた名人)の子)。
当時は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら戦国武将が天下統一を進めた時代です。
とりわけ秀吉は、能に耽溺し、自らも盛んに舞いました。秀吉は衰退した興福寺薪能を復興させ、
大和猿楽四座の大夫に扶持を与えるなど、能を手厚く庇護しました。
勝吉は、秀吉が大陸進出の陣を構えた名護屋城にも召し出され、後に扶持九百六十石を賜っています。
 徳川家康もまた能を好み、庇護し、大和猿楽四座の能は、徳川幕府の式楽(幕府の典礼楽)に定められました。
大夫たちも扶持を与えられ、将軍家や諸大名らの指導にもあたりました。
勝吉と家康の縁についてしたためますと、あるとき勝吉は浜松城の家康のもとによばれ、
「芭蕉」を舞い、徳川家に召されるようになったといいます。
勝吉は、技芸でも名手といわれましたが、武勇の誉れ高く、
大阪夏の陣に東軍の小笠原秀政に従って出陣して活躍し、家康の恩賞を受けています。

七代 重房(しげふさ)〔九郎、日休〕

【1665没・70歳】

勝吉の子。勝吉の隠居〔元和二年(1616)〕を受けて大夫を継ぎ、二代将軍秀忠、三代家光、四代家綱に仕えました。
寛永八年(1631)六月に浅草で四日間の勧進能を興行しています。

八代 重友(しげとも)〔九郎、将監(しょうげん)、日証〕

【1685没・67歳】

重房の子。寛永一三年(1636)、重房隠居を受けて大夫を継ぎ、徳川将軍家の四代家綱、五代綱吉に仕えました。
古将監と呼ばれる名手で、和漢の学にも通じ、伝書を残しています。
熱心な法華経の信者であったとも伝えられています。万治二年(1659)五月、京都で四日間の勧進能を、
また寛文三年(1663)七月に江戸鉄砲洲で四日間の勧進能を催しました。
なお重友の三男の重世(しげよ)は、俳句をよくし蕉門に入って雛屋の跡を継ぎ、沾圃(せんぽ)と名乗りました。

九代 友春(ともはる)〔九郎、将監、日楽〕

【1728没・75歳】

友春は、将軍家には綱吉から家宣、家継、吉宗にわたる四代に仕えました。
日楽将監と呼ばれた名手として知られ、宝生流を贔屓にした五代綱吉より、
手厚い支援を受けて流勢を拡大しました。また加賀藩の前田綱紀に請われて指南役となり、
同地における宝生流隆盛の礎を築きました。
友春の次男である嘉内は、加賀藩の扶持を得て宝生嘉内家を興しました(現宗家に連なる家)。
友春はまた、貞享四年(1687)、江戸本所で四日間の勧進能を興行しています。
本宅を神田の旅籠町に設け、正徳四年(1713)に舞台披きを行っています。
この屋敷は、幕末まで存続していました。

十代 暢栄(まさはる)〔将監、可徹〕

【1730没・32歳】

友春の子。越前の松平家に仕えていましたが、兄三人の早世のため、江戸へ戻り、大夫を継ぎました。
しかし大夫継承後、二年ほどで逝去しました。

十一代 友精(ともきよ)〔九郎、宗怙〕

【1772没・59歳】

養子(ワキ方宝生新次郎の子)。吉宗、家重、家治という三代の将軍に仕えました。宝生流中興の祖と言われる名手です。
流儀の繁栄を願い、春日大明神を深く信仰していた友精は、ある夜、明神より矢を一筋賜る夢を見て、
宝生家の家紋を、それまでの八本矢車から、現在の宝生家の家紋である九本矢車に改めたと言われています。

十二代 友通(ともみち)〔九郎、了味〕

【1775没・30歳】

養子(金剛大夫氏福の子)。大夫を継いで後、わずか四年で逝去しました。

十三代 友勝(ともかつ)〔多門、九郎、玄達〕

【1791没・25歳か】

養子(観世織部清尚の子)。
継承当時は幼少であったため、分家の宝生弥五郎英勝(分家四代目の宝生弥三郎(明喬)の子、
後に十四代大夫)が後見役となりました。

十四代 英勝(ふさかつ)〔弥五郎、将監、義可〕

【1811没】

養子(分家四代目の宝生弥三郎(明喬)の子)。友勝の嫡子である丹次郎が幼かったため、
後見役の英勝が大夫を継ぎました。「後の将監」と呼ばれる名手で、
宝生流の謡を今に伝わるように改めたと言われています。
この頃、一橋徳川家より将軍となった家斉は、生家が贔屓にしていた宝生流を嗜み、引き立てました。
将軍家、一橋家の後押しを受けて、英勝は流儀の隆盛を導きます。
英勝はまた、一橋家の後援を得て、寛政十一年(1799)に宝生流最初の謡本「寛政版」を出版しました。
完成度が高く、豪華で品格ある謡本の上梓は、英勝の優れた業績として、後の世までも高く評価されています。

十五代 友于(ともゆき)〔石之助、弥五郎、紫雪〕

【1863没・65歳】

英勝の孫(英勝の女婿、邦保の子)。英勝は、嗣子であった友勝の子、丹次郎が早世したため、
婿に入った邦保(くにやす)〔権五郎〕を後嗣としました。
しかし邦保も英勝に先立って亡くなったため、孫の友于が大夫を継ぎます。
友于は幼名を石之助といい、これは生まれた日に、英勝と邦保が江戸城大奥にて
「石橋 連獅子」を勤めていたことに由来すると言われています。
 友于は家斉、家慶の両将軍の指南役となり、宝生流は引き続き隆盛し、栄光の時代を迎えます。
この時代に輝く事績は、弘化勧進能の興行です。これは弘化五年(1848)二月六日~五月十三日、
晴天十五日間にわたり江戸神田筋違橋門外にて、宝生大夫一世一代能として行われた、
江戸時代最後の勧進能です。観客は一日平均四千人を数えるという大盛況で、 友于と長男の石之助(後の九郎知栄)とともに、全国から役者が集まり、舞台を盛り上げました。
番組でも、「春日龍神 白頭別ノ習(龍神揃)」といった大人数の新演出も生まれました。
数々の金字塔を打ち建てた一大イベントとして、弘化勧進能は、時代を超えて語り継がれています。
 友于はこのほか、嘉永六年(1853)に「嘉永版」謡本を出版するなど、
さまざまな業績を残した後、九郎知栄に大夫を継承し、金沢に隠棲して同地で亡くなりました。

参考資料

『宝生流のはなし(改訂版)』(わんや編輯部・著、わんや書店、昭和60年刊)
『宝生』第3号〔2010年3・4月号〕「特集 宝生の源流を訪ねて~宝生流略史~」(西野春雄・寄稿)
『綜合新訂版 能楽全書』第二巻(野上豊一郎・編、西野春雄・解題/付補注、東京創元社)